勘違いは認識の違い

Written by on
一方の言動を意図されたメッセージとは違ったように捉えてしまうことは、『勘違い』とか『誤解』という言葉で表されます。
この現象は日常よくある解決できる範囲の小さな問題として捉われ、理由やメカニズムについての探求には及ばない私たちですが、何故勘違いが起こり得るのでしょうか。
お互いの理解のズレはコミュニケーションの機能不全であり、あらゆる場で問題を炎上させていく素となりますので、例を見ながら自覚をしていきたいと思います。

まずはこんな例から。
大阪人と東京人の間で、大阪人が親しみのつもりで「どつき」を行うと、東京人にとってそれは乱暴に映ったりします。そして東京人が親しみのつもりで「馬鹿だねー」と言うのが、大阪人にとってはきつく聞こえたり。
以上は東京と大阪という離れた場所での文化の違いによるものだ、とは皆さん気付きやすいと思います。それではグッと距離を縮めて、家庭ごとの文化の違いを見てみます。
いつだったかの『人志松本のゾっとする話』で、バナナマン設楽氏が友人宅でオムライスをおよばれした時のことを披露しました。その友人の家ではケチャップは使ったら先を舐めるという習慣になっており、これにゾっとしたのだという話でした。
注目すべきは、この家族メンバーの誰も、ケチャップの先舐めという行為を今行っても大丈夫かという疑い → 大丈夫だという判断という認知作業を行ってから 舐める行為を遂行したのではないということです。
この一家の人員は「ケチャップは使ったら舐めるとは皆が行うごく当たり前のことだ」と認識しており、一方の設楽氏はケチャップは舐めないのが当たり前だと認識している、という認識の違いが可視化されます。

自分にとっての当たり前の行動とは、考えもなしに繰り返されるもので、何も知らない土地の中へポトンと落とされてカルチャーショックを味わいでもしない限り、適切・不適切を疑うことはありません。
自分の当たり前は他人にとっても当たり前と錯覚します。この錯覚は、他人も自分の生きている世界で生きているという認知レベルから来ており、認知心理学で提唱される "egocentrism:自己中心性" の特徴となります。

個人の見る、生きる世界は社会や物事をどう捉えるかによってその様子を変えます。
同じ家庭に生まれた兄弟で思考や観念を多く共通しても、経験を重ねていくうちにあるいは生まれ持った性格も影響して万物の解釈が違ってくるのです。
個人の世界の形成は社会的認知(social cognition)のテーマで説明します。

男女間関係ではお互いの家庭から持ち寄る文化の違いに加え、もっと根本的なものとして生物学的違い、更に性別に基づく社会的環境の影響があるので、認識の違いは否めないでしょう。
例えば女性なら、複数の事を同時に行える(multitasking)技や非言語の解読能力などが男性にも自分と同じようにあるものだと、これが人間なのだと捉えます。
女性の方がこれらに長けているという自覚なしでは、男性が一度に一つの事しかできないことを人間性としてジャッジするなんていうことが起きがちになります。
女性自身の非言語解読力は男性にもあると認識違いしてしまう、つまりメッセージは言葉通りのことだけによるものではないというコミュニケーション法の世界に男性も生きていると疑わないでいると、男性が本当にそのままシンプルに言うことも歪曲して取られがちになり、女性は「それは・・・ってことでしょ」と行間を読むようなことになります。男性からすればそれは一体どこから出てきたのやら皆目見当もつきません。

こういったように、人の間には認識の違いがあることから目をそらすと誰かが何の気なしに言った一言も嫌味になったりという勘違いが起こり、関係が不良化・劣化してしまいます。
それぐらい分かるだろうという他人への期待は自分勝手な行動となります。皆違う社会的世界を生きているのです。
認識違いの自覚がなく、他人の行動を極端に解釈すると被害妄想を引き起こしかねません。

Revised by the author on April 3, 2016

Share this article on... 
Page Top
Home